「なんでこんなににぎやかなのよ。」
アスカが不満そうにおかずを口に運ぶ。不意に風が吹き、揺れる髪の毛が彼女の食事を妨げる。
「ええやないの、1人や2人。」
トウジが呑気にコロッケパンを詰め込みながらいう。入りきらなかったコロッケのかけらをボロボロと落とし、アスカが不満そうに彼を睨む。
「ごめんねアスカ、私が屋上で食べたいなんて気まぐれ言ったから…。」
アスカの隣でヒカリがうつむく。
「いーのよ。問題は、このバカ2人が偶然屋上にやってきたってこと。」
「偶然じゃないよ。な、トウジ?」
ケンスケがにやにやしながらトウジを見る。トウジは何も言わずにそっぽをむいた。
「あー…あー、そういうことね。ならいいわ。」
アスカもケンスケと同じ表情をする。察しがついた。隣の棟にある教室から、見上げれば屋上は少し見える。トウジはそこからヒカリを見つけたのだろう。
「ところで碇くんは?」
「熱があるみたいで帰ったで。昨日から頭痛いとか言うてたし。」
確かに朝から具合が悪そうにしていた。アスカも今日は弁当を作らなくていいといったのに、彼女が起きるとシンジは少しけだるそうにしながらもキッチンに立っていた。
「シンジと言えばさぁ、例の噂きいた?」
屋上には他に誰もいないのに、ケンスケが3人に身を寄せて言う。
「噂?なんやそれ。」
トウジが興味津々と言った顔で聞きかえす。どうせくだらない話だろうと思ったアスカは、箸を持ち直して食事を再開する。
「シンジが彼女とデート説。」
3人が言葉を失う。カランカランとアスカの箸が落ちる空しい音が屋上に響く。
「あっ。」
「お箸?私、予備の割りばしあるから使って。」
ぼうっとしながらアスカは箸を受け取る。ケンスケの話の続きが気になってしょうがない。
「惣流や綾波やったとかいうオチやないやろな?」
トウジが念を押す。
「違う違う。見かけたのはこの学校の生徒だから、惣流なんて有名人はすぐ分かるよ。」
たしかに、とヒカリがつぶやく。エヴァのパイロットとしてついこの間まで戦っていたシンジたち3人を知らない生徒はこの学校にはいない。
「せやなぁ。んで、相手はどんな女やったんや?」
ケンスケが楽しそうに話す。
「腕組んで道を歩いてたらしいんだけど。そいつが見たのは後ろ姿だったらしいから顔は分かんなかったって。紺の地に、白い花柄のワンピースの人と。背はシンジよりでかかったらしいけど…そもそもシンジってちっちゃいもんな。」
「いつ見たのよそれ。」
「3日前。先週の金曜日だよ。」
先週か、とアスカは内心悔しがる。アスカはドイツ支部の報告会に参加していて、2日前に帰って来たばかりだった。どう行動していてもシンジたちを見ることはできなかった。
「はぁ、誰やろなぁ、気になるなぁ。」
「はっ、あのボーっとしたさえない男がモテるわけないじゃない。ぜったい見間違いよ。」
戸惑いながらも、精いっぱいの余裕を見せるアスカ。しかし、トウジに追い打ちをかけられてしまう。
「せやから、有名人のセンセがそう簡単に見間違われへんやろて。それに、あいつはモテモテやぞ。惣流がシンジといるようになってからはあんまないけど、惣流がここ来る前はしょっちゅう歓声あびたりして、なあ。」
トウジの言葉にヒカリとケンスケが頷く。
「たしかに、今は表に出てないだけでまだファンは多いだろ。」
「世界を守ってたんだもんね。」
「お、惣流さん?さっきの余裕は何処?」
ニシシ、とトウジがうつむくアスカの顔を覗き込む。
「っさいわね!」
アスカのどなり声と、スパーン!という気持ちのいい音とともにトウジが吹っ飛ぶ。
そのあとの午後の授業では、トウジの右頬に大きな赤い跡がついていたという。


『シンちゃんに彼女ぉ?』
電話口でミサトの呑気な声が響く。
仕事中だと聞いていたが、帰り道にだめもとで電話をかけてみると、休憩中のミサトが応答した。
『ネルフの監視にそんな情報は入ってないわよ。あなたとレイ、洞木さん以外にシンちゃんは女の子とのまともな接触なし。』
「監視って誰といるとかいちいちずっと見てるわけ?趣味わるぅ…。」
アスカは顔をしかめる。
『エヴァに乗ってないっつってもあんたたちはまだ大事な人材なんだからね。あんたとシンちゃんがイチャイチャしてんのもすぐに分かるわよ。』
「は?そんなことしてないっつーの。」
『で、なんでそんなこと聞くの?監視の目がついてないとこでシンちゃんが女の子に会ってた?』
ミサトに噂の内容を話すと、彼女の言葉の歯切れが悪くなった。
『あー、なるほど、ね。アスカがいなかったときね。』
「監視は見てなかったの?」
『えーっと…じょ、情報はないわね…。』
情報はない、とは言っているものの、ミサトの焦りは明らかにアスカに伝わっていた。絶対に何かを隠している。
怪しい。やはり本人に確認するしかないかとため息をつく。
「もういいわ。家につくし。」
『あ、ああ、じゃあ、今日はいつもの時間に帰るからね。』
電話を切り、玄関のカードキーを通す。ドアを開けたとたん、リビングから掃除機の音がした。
リビングに入ると、シンジがせき込みながらいつものように掃除機をかけていた。
「あんた…風邪で早退したんじゃなかったの?」
「掃除をね、昨日やろうと思ってたんだけど…宿題があったからできなくて。時間があるうちにやらないと…。」
掃除機の音に負けないようにシンジが大きな声を出す。その声も少しガラガラだ。どこまでくそ真面目なんだとアスカはあきれた。うっかり、彼を問い詰めることを忘れそうになってしまった。
「あんた、先週の金曜日の放課後のこと覚えてる?」
「え、先週の金曜日?どうして?」
シンジが掃除機をとめ、不思議そうに首を傾ける。
「噂回ってんのよ…あんたがその日、腕組んで女の人とデートしてたっていうやつ。紺の地に白い花柄のワンピだって。」
昼は予想外なうわさ話につい動揺したが、やっぱりこいつに彼女なんか、とアスカはたかをくくっていた。シンジのほうを見もせず、冷蔵庫から出したジュースをコップに注ぎながら、軽い口調でシンジに話した。
しかし、言ってから振りかえると、シンジはあきらかに狼狽した表情を浮かべていた。
「あ、えっと…その日は…。」
「は?」
思わず間抜けな声を出す。
「その日は…普通に、帰ったし…アスカもドイツだから、1人で。」
本人は隠しているつもりだろうが、焦りの色は全く隠し切れていない。これほどに嘘をつくのが苦手だったのかと、アスカは呆れてしまった。
「あ、そ。じゃあそいつの見間違いね。」
無理やり、彼女はそこで話を切り上げてしまった。

次の日、いつもシンジが座っているアスカのとなりは空席だった。彼は昨日むりやり家事をやりとおしたため、結局風邪をこじらせて学校に来られなくなってしまった。
大卒のアスカにとって、一般的な中学校の授業は退屈でしかなかった。それでも、板書が日本語を書く練習になるからと、いつもは話半分に聞いてノートを何となく取っているが、今日はペンを指で器用に回すだけで一文字も書くことはできなかった。
(なんであいつらはかたくなに隠すのかしら。)
2人が何かを隠しているのは明らかだった。噂の話をした時のうろたえ具合も尋常ではなかった。
(答えなんて、決まってるか。)
彼女は自分がシンジにどんな感情を抱いているかは自覚しているし、隠しているつもりでもなぜか周りにはばれてしまっている。幸い、シンジ本人は分かっていないようだが。
おそらく、シンジはガールフレンドの存在を誰にもばらさずやっていっているつもりで、ミサトはアスカの気持ちを察して、シンジと同じ態度を取っているのだろう。
頭ではそんな考えがまとまっているけれど、気持ちの整理が追いつかない。だって、もう自分の気持ちにシンジは答えてくれないのだ。
授業中じゃなかったら、きっと視界がかすんでいた。

シンジが寝ていると思ったアスカは、音をたてないように自宅に入った。
案の定リビングには誰もいなかった。
アスカは忍び足で自室に向かう。いつもわがままを言って家事をさせているのだから、たまには休ませてやろうと彼女なりに考えた結果だ。
しかし、ふすまを開けるとその気持ちは消し飛ばされてしまった。
「…あんた、なにやってんの?」
シンジがアスカの洋服が入ったタンスを開けている光景が目の前に飛び込んだ。
いつも、洗濯物をしても彼はアスカの洗濯物は彼女の部屋の前に置くだけで、わざわざ中に入って、しかもタンスを開けたりなんかしない。
シンジはと言えば、アスカが声をかけてびくついたきり、タンスのほうを向いてうつむくだけで何も動かなくなってしまった。
「ちょっとシンジ?」
その言葉に、しゃがんでいた彼は尻もちをつき、アスカのほうを向いた。
「あ、あ、違うんだよアスカ。」
ぶんぶんと両手を振り、全力で否定するシンジ。
それでも、たとえ同居人とはいえ、同い年の少女のタンスを覗いていた彼への疑いは簡単にぬぐえない。
「なにが違うのよ…。」
「そういうことで、覗いてたとか、そんなんじゃないんだよ、ほんと。ほんとだよ。」
懇願するようにシンジが言う。言ってることが要領を得ていない。
「で?」
アスカは呆れた顔でしゃがみ、シンジの頭の高さに合わせる。
「言い訳聞いてやるわよ。なにしてたの。」
「あの、それは…。」
シンジがためらう。この期に及んでまだ黙るつもりか。ガールフレンドがいるって言うのに、それではもの足りないというのか。
「黙るんなら、あんたのこと変態として一生軽蔑するけど。」
アスカが睨みつけると、シンジは観念したような顔をした。
「あの、全部言うから…怒らないでね。」
「やっと話す気になったのね。言いなさいよ早く。」

その日、シンジは1人で下校していた。ネルフからの招集もない。
上司のミサトも、大学のゼミの同窓会に昨日出かけたきり帰ってこない。
(たまにはコンビニのお弁当とか買ってこうかなぁ。今日ぐらい夕飯作らなくてもいいよね。)
帰ったらトウジから借りたゲームもやりたい。最近ゲーム本体はすっかりアスカに独占っされてしまってるけど、今日はのびのびできる。
(帰り道のコンビニに行こうか、それとも、遠出して―――)
「シーンちゃん!」
不意に、後ろから思いっきり抱きつかれた。声を聞いただけで、シンジは振り向かなくても誰かは分かっていた。
「ミサトさん!」
「ガッコ帰りぃ?いつもよりちょーっち遅いんじゃあい?」
そう言いながらミサトがシンジの腕にからみつく。シンジはたじろきながらも答えた。
「今日は学年集会があって…。」
その時にシンジは始めて振り返った。ミサトは頬を紅潮させ、目もうつろだった。完全に泥酔している。酒臭いことにも気づいた。
「ミサトさんどんだけ呑んだんですか。」
「二次会でオールしてたのよぉ、おーる。呑まなきゃやってらんあいっつうの。みーんなケッコンしちゃってさ、指輪見せつけやがって。どーせ私は一生独身…。」
ミサトの悪口が続きそうだったので、シンジはなんとか遮る。
「と、とにかく離れてくださいよ!お酒臭いです…。」
やーん、と無駄に色っぽい声を出すも、シンジには通用しない。簡単にひきはがされてしまった。
「って、ミサトさん…それ…。」
「…え?あっ…。」
離れると、ミサトのワンピースの腹の部分全体が真っ赤に染まってしまっていることに気がついた。地は紺の服だが、花柄は白いのでしみがはっきりと分かる。血ではない。ワインだ。
「もう駄目ですね。オールってことは呑んだの夜でしょ?時間がたっちゃってるから落ちませんよ。捨てましょう、自業自得です。」
シンジの言葉にミサトは反応しない。青い顔をして、できてしまった大きなしみを呆然と見つめている。
「ミサトさん?そんなに高かったんですか、それ。」
「わ、わからないのよ…。」
その声は完全に酔いがさめている。
「分からない?」
「これ、アスカのだから…。」
え、とシンジが固まる。
「アスカの?借りたんですか?」
「か、借りたっていうか…その、ほら、いまアスカいないでしょ?帰ってきたら言おうかなーみたいな…。」
つまりは、勝手に拝借したということだ。あはは、と弱い笑いを見せてから、
「助けてシンちゃぁん…。」
一気にミサトは涙をこぼした。

「…と、いうわけで…。」
シンジが、後ろに隠しておいたものをアスカに差し出す。
「ミサトさんに頼まれて、同じワンピースの新しいものを買ってきたから、アスカが確実にいないうちにこっそりここに入れようと思って、ここにいました…。」
「なるほどね。」
ワンピースを奪い取るように受け取り、眺める。噂通り、紺の地に白の花柄。まさか自分のワンピースを指しているとは思っていなかった。確かに、ドイツに発つ少し前に衝動買いしたものだ。
「一昨日、アスカが帰ってくる前に買ってきてなんとかするつもりだったんだけど、アスカ到着早まったからできなくて。」
アスカは手続きミスで急きょ1本前の便に乗らされたことを思い出した。
「じゃあ、噂はデマだったのね。ややこしいったらないわ。」
ワンピースをタンスにしまいながら言う。
「噂?あ、あの、腕組んでたって言う…。」
「ったく、あんたたちが最初から正直に言ってればこんな面倒なこと考えないですんだのよ!」
アスカがシンジにデコピンをかます。シンジは「いたっ」と小さな悲鳴を上げ、涙目になった。
(これくらいの復讐なら小さいもんよ。)
3発グーで殴ってもお釣りが帰ってくるレベルだわ。
腹が立っているはずなのに、表情は不思議と、どんどん緩んでしまうのだった。
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