アスカがリビングに入った時、シンジはいつも通り夕食の準備をしていた。
(こんな日くらいレトルトにすりゃいいのに。)
何回も彼にそう言ったことはあるが、そんなんじゃダレちゃうから、と彼は拒否したのだった。
いつもと違うのは、彼が「おかえり」を言わないところだった。



左手にキス



「夕飯なにー?」
カバンを放り投げながらアスカが尋ねるが、シンジの返事はない。不思議に思ったが、料理に集中しているのだろうと勝手に解釈し、彼女は部屋に入って部屋着に着替え始めた。
しかし、部屋を出て、テレビをつけてもなお、シンジは一言も発さない。そんなに今日の使徒戦はきつかっただろうか。いや、彼は今日は一つも傷ついていないし、さほど苦戦したものでもなかった。
「ねえ、夕飯何時くらいにできるの。」
その質問にも、彼は答えなかった。彼は鍋に向かい合うだけで、こっちを見ようともしない。
「ちょっと、シンジ?聞いてんの?」
シンジは少しも反応を見せない。アスカは腹が立ったのでぶん殴ってやろうかと思ったが、疲れた体はソファと完全に融合してしまっている。人を小突くためにいちいち立つなんて面倒でしょうがなかった。
彼女はそのまま、疲労に身を任せてうたた寝に入ってしまった。はっと目が覚めると、時計はもう1時間進んでいて、シンジはリビングにいなかった。シャワーの音がかすかに聞こえる。シンジは風呂に入っているのだろう。
重たい瞼をこすりながらダイニングテーブルに向かうと、1人ぶんの夕飯が置いてあった。内容はチャーハンとスープで、ラップがかかっている。
椅子に座り、アスカは黙々とそれらを食べた。シャワーの響く音が、さっきよりも大きくなった気がした。
(私、なんかしたかしら。)
出撃前はなにも異常はなかった。招集がかかってからはもちろん喧嘩をする時間なんてないし、ネルフからの帰りも別々だった。思えば、いつものように一緒に帰らなかった時点でおかしかったかもしれない。
いつもはアスカが機嫌を損ねていきなり怒るパターンなので、逆の立場となると戸惑う。それ以前に、心当たりがない。
もやもやしながら食事を終え、柄にもなくシンジの使った分も合わせて食器を全部洗った。
そうしているうちに、シンジが風呂場から戻ってきた。
「…あ。」
何か言おうと思ったが、言葉が出てこない。
「食器、ありがと。」
今までにない低い声だった。明らかに不機嫌だ。感謝されているはずなのに、体はこわばってしまう。
「シンジ、あの。」
「ごめん、今日は疲れたからもう寝るよ。おやすみ。」
足早に自分の部屋へ向かうシンジの肩を、アスカがつかんだ。
「私、なんかした?」
「べつに。」
声のトーンは低いままだ。背中もあっちをむいたままだ。
「言いなさいよ。怒るのは勝手だけど、理由言われないと腹立つわ。」
「なんだっていいだろ。アスカには関係ないよ。」
肩を振ってアスカの手を振りほどく。あわてて、アスカはシンジの腕を掴んだ。
「よくないわよ!」
「…。」
アスカと目を合わせないように、シンジはうつむく。
「関係ないわけないでしょ。言えっての。何よ。」
「…その、腕。」
「は?」
シンジが、自分を掴んでいないほうのアスカの腕を見る。
「ああ、これ?これが何よ。」
「僕のせいだろ。」
シンジの顔はまだ不機嫌そうだ。
はぁ、とアスカのシンジを掴む力が抜けた。
「そんなこと…しょうがないでしょ。私がディフェンスだったんだから。」
いつもの作戦内容だったら、零号機が援護、初号機がディフェンス、弐号機がオフェンスだった。けれども、左足を修復中の弐号機は機動力を欠くため、今日の作戦は特別にディフェンスに回されていた。
オフェンスのシンジをかばおうと、アスカはシールドを持って駆け付けたが、守りに入る直前でシールドを落としてしまった。取りに行くのは間に合わないと思ったアスカは、そのまま左腕で使徒のビームをもろに受けたのだった。
「僕がもたもたしてたからこうなったんだ。」
シンジがアスカの左腕の包帯をなでる。傷は手首から肘まで、全体的に広がってしまっていた。
「大丈夫よ。範囲はでかいけど浅いから、レーザー治療で傷跡も残らなくなるらしいし。」
手当てをするために帰りの時間がシンジと違ってしまっていたのだ。待ってくれているのだろうと思ってアスカが治療室を出ると、シンジはもう帰ったとマヤから告げられた。
「ほんとに?」
シンジの表情が明るくなる。感情を素直に出せない自分とは反対に、表情がころころと変わる彼を見ていると、なんというか、ただ愛おしいと感じてしまう。
「ほんとよ。こんなこといちいち気にすんじゃないわよ。これくらいのケガなら覚悟のうちにも入らないわ。」
世界を守る仕事が、2,3日で治るケガをするだけで成せるなら軽いものだ。
シンジがさらにほっとした顔をする。抑えられなくなったアスカは、左手で彼の頭をゆっくりとなでた。
「だから、弐号機がフル稼働になったら、あんたが私を守るのよ。」
「…うん。」
シンジが静かにアスカに口づけをする。
今日はミサトが残業でよかった、とアスカは静かに思うのだった。

そんな、甘い夜。
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