「ぜんっぜん終わらないわ…。」
誰もいない教室で嘆く。
いつもならこんな時はヒカリに頼るのだが、今日は学級委員の会議があるといってどこかに行ってしまった。
全然終わらない、と言うよりやる気の問題かもしれない。ケータイの充電は帰りのホームルームの時よりも明らかに急速に減っている。
はぁ、とため息をついて天井を仰ぐ。今が何時かなんて、見たところで焦るようにも思えない。
「あれ…えっと…惣流さん、だっけ。なにしてるの?」
教室の入り口から声が聞こえた。あまり聞きなれない声だと思ってそっちを見ると、3日前に引っ越してきた転校生だった。
「あんたは…碇だっけ。」
「うん、碇シンジだよ。」
「そうそう、碇シンジ。あんたは何してんの?」
「前の学校がここより授業が遅れてたから、補習をやってもらってたんだ。」
で、惣流さんは何してるの、と彼は首をかしげた。
この時間には部活棟やグランド以外には生徒はもうほとんど残っていない。
「あんたが転校してくる前に文化祭があったんだけど、その会計報告書を出し忘れてたのよ。だからここでやっちゃおうと思って。」
彼は聞きながら教室に入り、私の前の椅子に座った。
「惣流さんが実行委員だったの?実行委員ってクラスにつき1人でやるの?」
「いや、もう一人いるんだけど、部活の大会前だから忙しくて頼まれちゃったのよ。」
「家でやればいいのに。」
「家じゃ完全に投げだすのが目に見えてるわ。」
なるほど、と彼は笑った。うっすらとえくぼができる。
「今も結構投げだしちゃってるように見えるけどね。」
夕焼けが、彼の色白い顔をオレンジ色に染めていた。整っている顔と、つやつやと夕焼けを反射する彼に、少し見とれてしまった。
「あんた、前の学校じゃモテたんじゃないの。」
言ってから、その言葉がセクハラじみていたことに気がついた。
「そんなことないよ。普通の高校生だったよ。」
「背もでかいし。」
近寄ってきたときのことを思い出すと、180センチ近くありそうだった。
「ほめてくれてるの?ありがとう。」
「どういたしまして。」
自分の役目を忘れて机の上で転がるボールペンを、彼が見る。
「仕事、いいの?」
「めんどくさくなっちゃった。」
「手伝うよ。これを合計すればいいんでしょ?」
彼が書きかけの会計書と電卓を自分のほうに向ける。
「そう。それでここに書く。」
「わかった。僕は会計やるから、惣流さんは報告書の文章書いてなよ。」
彼の言葉に甘えてそうすることにした。正直かなり助かったが、素直に感謝の言葉が出てこないのが私の悪いところだ。
「随分手際がいいのね。」
「前の学校もついこの前文化祭だったんだけど、それで僕も実行委員やってたから。」
軽快な音を立てて彼が電卓を叩く。反対に、私は今日はじめて話した彼が気になって1文字もかけずにいた。
「あんた、まだ帰らなくていいの?」
「うん、僕1人暮らしだからね。自由だよ。」
「1人暮らし?」
「うん。惣流さんってさ、コンフォートってマンションに住んでない?」
は?と声が漏れた。こっちが探る側のつもりだったから、思ってもいない切り返しだった。
「そうだけど…何で知ってんのよ。」
「僕もそこに住んでるんだよ。昨日、帰りに惣流さんが僕の前でコンフォートに入っていくのを見たから。惣流さんは僕に気づいてなかったっぽかったけども。」
確かにこの前の週末、マンションの前には引っ越し業者のトラックが止まっていた。新しいマンションだから最近の入居者が多く、そこまで気に留めていなかった。
そこから、私も彼も自分の作業に入りこんだ。30分もしないうちに、すべてが終わった。
「あんた、こういうの向いてるんじゃない?」
「たしかにこういう細かい作業は結構好きかも。」
はい、と彼が私に会計書を渡す。
「お礼になんかおごるわよ。確か購買の自動販売機はまだ動いてるはずだから。」
「そんな、お礼なんていいよ。ちょっと手伝っただけだから。」
「そう言うのは私の気が済まないのよ。ほら、何がいい?」
うーん、と彼は困った様に笑ってから、
「じゃあ飲み物はいいから、惣流さんともうちょっと話がしたいんだけど。」
といった。
「意外と積極的なのね。」
「そういうのじゃないよ。」
彼は一瞬腰を浮かせて座り直した。部活動時間終了を告げるチャイムが鳴り、校庭に下校を促すアナウンスが流れる。
生徒はもういないと思われている校舎内には、放送は流れない。
世界から私たちだけが隔離されたような気がした。そこに不安はなかった。
「惣流さん、なんか悩みとかないの?」
「…宗教の勧誘なら、断るわよ。」
それも違うって、と彼はまた笑って首をふった。
「ちょっと聞きたいなって思っただけなんだよ。」
怪しい感じもしなかったので、私は心当たりを探し始めたが、これと言って今悩みなどない。
交友関係は(おそらく)良好だし、成績だっていままで苦労したことない。恋の悩みなんて、なおさら縁がない。
「強いて言うなら、料理かしらね。」
「料理?」
「そう。うちはママと二人暮らしなんだけど、最近ママが海外に単身赴任始めちゃって。食事全部自分で用意してるんだけど、私今まで料理なんてしなかったから、コンビニとインスタントばっかりなのよ。さすがに体に悪いかなって。」
なるほど、と彼は頷いた。特別深刻な悩みを打ち明けているわけでもないのに、彼の表情は妙に真剣だ。
「それはよくないね。」
「でしょ?ヒカリ…学級委員の子ね。ヒカリに何回か簡単にできる料理教えてもらってるんだけど。あの子も最近自分のことで忙しいから迷惑かけたくなくて。」
彼女は自分の色恋沙汰で精いっぱいだ。相手の男は、自分では硬派と言い張るが客観的にはただの鈍感なガンコだから、なかなか思うように発展しない。
「へえ。…あ、ちょっとまってて。」
そう言って彼は立ち上がり、自分の席に置いてあったカバンの中を探りだした。そして中からタッパを持ち出し、
「これ、食べる?」
と、ふたを開いて私に見せた。
「なにこれ、マフィン?」
タッパの中を覗き込んで聞く。
「そう。お昼に一緒に食べようと思ってトウジとケンスケに作ってきたんだけど、なんか、トウジがお昼休み教室にいなくて。」
ヒカリが屋上でお弁当をふるまったからだ。あいつらしく、彼にも相田にもなにも言わずに出て言ったらしい。
「あんたが作ったの?」
「そうだよ。僕もここに来てからは1人暮らしだから、結構暇なんだ。」
相づちを打ちながらありがたくマフィンを一つ手に取る。もちろん冷えてはいるけれど、ふっくらとしていて色つきもおいしそうなものだった。いただきます、と断ってから一口かじる。
「ん、おいしいわね。」
「作り方は簡単だから、惣流さんみたいに料理普段しない人でもできるよ。」
「なるほどね。」
「こういう簡単なものから始めて、作ったものを誰かに食べてもらえば、料理って上達するんだよ。」
頷きながら次の一口をかじる。
「自分で食べるんじゃだめなの?」
「だめってわけじゃないけど、誰かのために作るとなるとやっぱりやる気が違うよ。」
ふぅん、と相づちを打ち、マフィンを凝視してから最後の一口を放り込んだ。
「僕でよければ、いつでも食べるから。」
「腹壊しても文句は聞かないわよ。」
「大丈夫大丈夫。」
「同じマンションに住んでるんだから、休日に持っていけるわね。」
「そうだね。僕はあんまり外に出ないから、ほとんど家にいるよ。」
気がつけば、空のオレンジ色はほとんど消えていて、群青色が大部分を支配していた。
「うわ、結構遅くなっちゃったわね。」
「ま、帰っても誰もいないし、僕ら。」
「そうだったわね。」
出来上がった書類とペンケースをカバンにしまう。作業を終えたころより手元がずいぶんと暗くなっている。
「誰もいないけど、帰る価値はあると思うわ。」
その一言に彼は頷き、立ち上がった。


彼は帰り道、ずっと初心者に優しいレシピを私に語っていた。それはありがたいけれど、結構な品数を提案してくるものだから、歩きながら聞いただけでは到底覚えて挑戦できるようなものではなかった。
一通り聞いてから、私はふっとうかんだ5文字を口にした。
「…バカシンジ。」
「え?」
驚いた顔で彼が私を見る。
「い、いや、なんかいま、何となく言っちゃって…。」
会って3日でバカ呼ばわりはないだろうと自分を責めた。彼は不機嫌になるわけでもなく、ただ驚いたままでいた。
「そんなに驚かなくても。」
私の一言で彼ははっと我に返り、
「あはは、びっくりしちゃった…。名前でよんでも、全然いいんだけどね。」
と言った。
「そう?まぁ、せっかく友達ってやつになれたんだものね。遠慮なく。」
「僕も、アスカって呼んでいいかな。」
その一言に、なぜか私が黙ってしまった。どうして言葉が続かないんだろう、と、自分でも分からなかった。
ただ、訳も分からずその言葉にひどく動揺してしまったのだ。
「い、いいけど。」
ようやく返事をした。その時、ちょうど私が住むマンションの入り口の前にたどりついた。
「僕、奥の棟だからここが入り口じゃないんだ。だから、ここでバイバイだね。」
「そうね、じゃ、また明日。」
「アスカ。」
手を振って入口に向かう私を、シンジが呼びとめた。
「この世界は、本当は3年前にできたものだって言ったら、信じる?」
冗談を言っているような表情ではなかった。
「それはないでしょ…だったら、私たちが授業で教わってる歴史はなんなのよ。教科書は何千年も前のことから始まってるけど。」
「ちょっとちがうな…。正確に言うと、もともと別の世界があって、3年前に書き換えが起こって、今の世界になったんだ。」
不思議と、その話に引き込まれてしまう自分がいた。彼を睨みつけて強引に帰ってしまうこともできたが、そんな気にはならなかった。
「じゃあ、3年前の私は今の私と全然違ったってこと?」
「アスカだけじゃなくて、みんなそうなんだよ。たとえば、アスカは世界を守るために強大な敵と戦ってたかもしれないし、僕やトウジ、ケンスケや委員長はそのときすでにアスカと出会っていたかもしれない。」
「なるほどね。あんた以外のみんながそれを忘れてるって言うんなら、それもあり得るかもしれないわね。」
「信じてくれる?」
「うーん、2%くらい。」
少ないなぁ、と彼は苦笑した。
「普通の反応なら0%でしょ。サービスしてやったのよ、これでも。
「それはありがとう。」
「じゃあ、なんで3年前に、その書き換えが起こったの?」
そう聞くと、彼は頭をかいて照れ笑いをした。
「好きな女の子に、幸せになってほしかったんだ。」
「意外と情熱的なのね。」
「書き換えの前は僕のせいで悩ませちゃったからね。」
「その子にはあったの?」
「うん。」
彼は大きくうなずいた。満足の表情を浮かべている。
「その顔を見ると、その子は幸せになれたのね。」
「うん、そうみたい。」
「こんなとこで油売ってていいの?その子と一緒にいなさいよ。」
別の女と放課後遅くまでいたなんて、その彼女にとっては大問題だ。
「幸せそうな顔を見られたから、もういいんだ。僕は必要ないみたい。」
「そんな辛気臭いこと言ってないで会いに行きなさいよ。」
「そうだね、そうしよっかな…じゃ、今度こそこれで。バイバイアスカ。」
「ん、また明日。」
彼が私のもとから去る。私も帰ろう、と歩き出そうとした時、
「アスカ。」
後ろから肩を叩かれた。



振り返った途端、目が覚めた。



「アスカ、アスカ。」
声の主はヒカリだった。小刻みに身体を揺らされている。
私は机に突っ伏してペンを持ったまま寝てしまっていた。
教室は、オレンジ色に染まっていた。
「いつから寝てたの?」
「ん…と…。」
目をこすりながら起き上がる。
「あ、会計報告書、できたんだ?よかったね、今日中に終わらせられて。」
ヒカリが机の上の会計報告書に気がついて言う。
その時、眠りから完全にさめた。
さっきまで、シンジと帰っていたのに、どうして教室にいるんだろう。
「あれ?あいつは?」
「あいつ?」
ヒカリが首をかしげる。
「あの、転校生…碇シンジってやつ。」
「いかりしんじ?」
ヒカリはさらに首をかしげた。
「転校生なんて、いないと思うけど…。」
「え?」
机の上を見ると、ペンは1本しかなかったし、会計報告書に書かれている字も私の字だった。
「そう…。」
「もう、寝ぼけてないで帰ろう?校舎閉まっちゃう。」
「そうね…。」
納得のいかないまま、荷物を片付けて立ち上がった私を見て、ヒカリが笑った。
「ちょっとアスカ、何食べてたのよ。」
彼女が私の口の右端を指さした。
そこを触ると、お菓子の食べカスがついていた。
「マフィン…。」
私が答える。
「マフィン?購買で買ったの?」
「ううん、もらったのよ。」
「へえー…また男子でしょ?アスカにプレゼントする男子、多いもんね。」
まあね、と、私は、食べカスを見て笑った。
「今度はどんな男子だったの?」
「気の弱そうな奴だったわ。」
「気弱?気弱でも、その人は頑張ってアスカに会いに来たのね。」
ううん、と私は首を横に振った。
「3年前まで一緒にいたんだもの。大した距離じゃないと思うわ。ヒカリも知ってる人よ。」
空はまた、オレンジから群青へと色を変えていった。
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